ある対立について、暴力でそれを解決せざるを得ない場合もある。
しかしそれは、両者ともに間違っている。
自分が間違っているという認識の上に、せざるを得ない場合がある。
その瞬間、自己の蛮行に苛まれつつ、行う。
自分の野蛮さを恐れないことを傲慢というのだろう。
ある対立を眺める際に、倫理や正義の問題を考慮しない心のことを野蛮という。
今日、ネットやテレビを眺めて、野蛮が平然と闊歩していることを恐れる。
明日、自分の心を眺めて、野蛮が平然と闊歩していないことを願う。
傲慢の王国に住み、野蛮の住人となることが、本当に怖い。
傲慢の国王は、自信満々で自分が正義であること、あるいは自分が被害者であることを疑わない。
野蛮の住人は、自分の苦しみだけに心砕き、明日の損得ばかりをせっせと計算している。
傲慢の国王も、野蛮の住人も、みんな同じ顔をしている。
今日は、ただただ慄くしかできない。
2025年6月22日 鈴木 智
Comments
コメントはまだありません。