なめくろ館設立の意義
1945年の敗戦から、日本人が混迷と情熱の中で積み上げてきた様々な価値観や日本的スキームが機能しなくなって久しい。しかし私たちは、今日でもそれらの「民族的蓄積」を混迷する時代の闇を過ぎ抜けるための、ただ一つの灯(ともしび)として我が手に握りしめて走り続けている。その正体は『すでに歴史的役割を終えた脱け殻・あるいは熱狂の残滓』にもかかわらず。
私たちは、私たちを生かし、また苦しめ続ける古き灯の残光を、その老いて死に体となった燃えカスを、真心を持って悼み、感謝を以って供養する葬儀の必要に直面している。
古き幻影の産む苦しみと狂騒に囚われることなくそれを健やかに手放し、もはや振り返らずに次の熱狂へと身を投げるのだ。日増しに深まる暗闇の中で我が身を投げ出す方向が分からないとしても、今・この場所に留まり続けることは暗愚である。
嘗玄館は、この【決死の身投げの瞬間】にこそ全ての人の前に立ち現れる旅立ちの門である。
その姿は、始まりには未知なる不安への禁忌の扉であり、振り返れば己の歩んだ軌跡を示す標べであり、終には新たな生まれ変わりの膣口となる。
この旅路はどんなに深い愛を以ってしても、ただただ一人の道である。富貴卑賤に関わらず、全人に等しく、故に優しく孤独、己ただ一人の道行きなのだ。
私たちに出来ることは、この「門」の存在をムシロ旗に刻印し、同じ旅に出た人たちがどこかで、必死に、健気に、血まみれで己一人の道を歩んでいると信じて、憤怒で笑って菩薩に泣いて、疲れと虚無を伴侶に歩き続けることのみだ。
私たちは孤独に連帯する。
私たちは寂しさに紐帯する。
私たちは四苦を通じて許し合う。
生類の出会う地平線を目指し、捨身の一歩を共に踏み出そう!
令和元年7月 鈴木智